(2008年7月24日付Amebaブログより 弁護士7年目です。)
今日は国選事件で論告・弁論期日だった。
若干争い気味だったので弁論は結構分厚く、読むだけで20分くらいはかかっただろうか。
報酬なんか10万円もないだろうが、かけた時間は結構なものだった。
弁護士はお国のために安い国選報酬で頑張ってるので、なんとかこの辺の悲哀を全国民にわかっていただきたい。
国選でも何でも刑事事件できっちり事実をあぶりだし、主張するのは好きだ。
検察官の平板な論告に、緻密さとひらめきに満ちた弁論を展開したいという欲求がある。
細かな証拠を拾い、点と点を結んで線にする作業である。こっちの絵の方がきれいでしょう、こっちの見方の方がスマートでしょう、と裁判所にアピールするのである。
これはもともとの探究心というか最上志向のためか、ついハイテンションでやってしまう。
検察官というのは、どうやら決まった構成要件に入れこむために若干無理する生き物のようである。
たとえば、どうみても、実態は「強制わいせつ既遂+強盗未遂」(今日の事件ではないですよ)なのに…
→えいや!と科罰性を加えまして…
→はい、「強盗強姦未遂」のできあがり。
となるのだ。たしかに気持ちはわかる。ひどいことしたけしからん犯人を罰したい。
しかし、詰める具材がお粗末なのに、そんな立派なお重に入れたらあかんやん、と思う。
重箱降ったら、中身コロコロ言ってまっせ。
これは若干問題あるので程度がひどくなると無罪とか縮小認定ということもありうると思う。
今日は若干これとは異なるが、起訴裁量について。
代表的な例を挙げる。
10円の駄菓子を盗んで、追いかけられて、駄菓子屋のおばさんの手を噛んで逃げた、という場合、形式的には、「強盗傷人」に該当し、「強盗が人を負傷させたとき無期又は六年以上の懲役」(刑法240条)ということも可能になる。えらい重いなあというのが普通の感覚であろうと思う。
このような場合、「窃盗+傷害」ということでいいではないか、と検察官が判断して、概ねそのような処置をしている(はずである)。
これを起訴裁量というわけである。もちろん、形式的には「強盗傷人」もいけるのであるがあえてそうしないのである。
この起訴裁量はまさに検察官の一番の腕の見せ所(また悩みどころ)という気がする。
私が熱くなってしまうのは、起訴裁量が適切に行使されていないと感じた場合であることが多い。
起訴裁量は検察官の良心である。起訴裁量を行使しない検察官なんて、言ってみれば、微妙にのり弁をごまかして、のりデラックス弁当として売っているホカ弁屋ようなものである(皮肉にも「ホカ弁」が出てきてしまった。)。
そら店によってデラックスの定義は違うけど、これ他の店やったらただののり弁やでぇと言いたくもなる。
こういう不公平感がどうにも嫌いだ。世間ではこれをのり弁という!!と線を示したくなる。
ここを引き下がったら、刑事司法の場がどんどんバランスを失っていく気がして、つい頑張ってしまう。
もちろん、結果はおおむね敗訴である。
私が問題にしているのは、仕事人として、これは「のり弁」として売り出すべきやろ、と判断すべきところを、安直にのりデラックス弁当として売り出す精神性であるから、頑張っても無罪(一部無罪)とか罪名が落ちる(縮小認定といいます)ということにはならない。
刑事裁判は、のりデラックス弁当として成立しているかどうかを検討するだけだから、である。
一個一個の具のレベルは低く、インパクトには欠けるが弁当として成立している。
何より、検事が箱に「のりデラックス弁当」と書いているんだから、しょうがない。
そして、意に沿わないにせよ、多くの場合、自白という形で、「のりデラックス弁当」として売り出すことを被告人が認めてしまっているのである。
よほど弁当のセレクトに厳しく、「おい、これのり弁の中身を入れ替えただけやん!」と気づく裁判官でないと、この流れは動かない。
起訴裁量っていうだけあって、しなくてもいいんだけれど、やっぱり、それはしときましょうよ、というお話。