(2007.6.18 Amebaブログより)
ネット上で法律知識も判例も得られる時代です。
僕らも新しい相談などが舞い込むと、まずネット上でキーワードを探してどんな法律知識が必要か、文献はあるか、判例はあるか、のあたりをつけます。ただ、それに全面的によるわけではありませんが。
では、一般の方でも法律知識は十分得られるから弁護士はもはや必要ないのか?という思いになるわけですが、ある意味ではイエスであり、ある意味ではノーなんですね。
ここでは、実際に裁判に行けないから訴訟代理人として弁護士が必要だ、という点は抜きにして、もう少し本質的な部分を語ります(実務的にはこれは結構重要なのですが。法人が当事者の場合とか。)。
誤解を恐れずに申し上げれば、「法律的にはこうなります」という知識を辞書的に応えるだけの弁護士はもういらない、といっていいと思います。それは、ネットで調べましたってことで済むわけですから。ごくごく少数そういう方もおられるかもしれませんが、僕の知りうる限りはいませんけどね、そういう人は。でもそういう人は業界から去ってもらわないと依頼者が可哀相です。他士業もしかりですよ。
相談者は、AからZまである解決法の中で、どれがとるべき方法かを聞きたいのでしょう。ですから、知識にその依頼者の価値観と弁護士の価値観を乗せて、かつ常識的ある解決案を与えることができなければ、それは弁護士に求められる要請を満たしていないのだと思います。これらいずれの要素も欠けてはなりません。
事実を聞き取っていくうちに、依頼者にとっては受け入れがたい結論を言わなければならない局面もありますが、そういう場合に弁護士の真価が問われるなと常々思っています。私は、泣き寝入り、ではなく、積極的に事実を受け止め、依頼者が乗り越えていくためのきっかけ作りの第一歩が相談室から始まっていると考えています。依頼者が非常識な場合は、依頼者と争うことなく、常識を少しでも肌で感じてもらえるよう心がけています。
自分としては、あらゆる紛争は、最後に「ゆるし」がなければ終わらないのではないかと感じており、それを究極の目標として、判断を誤らないよう、軸がぶれないようにと心がけています。また、紛争解決のプロフェッショナルであるためには、常に常識を見失わず、攻める場合にはどこまで攻めるべきかどこで引くべきかを適確に見極め、守るときもどこを守りきるか(依頼者のお金か正義感かプライドか平穏な生活か)を見極める能力が必要です。
まだ達成してはいませんが、僕にとっては当面これがテーマです。
そして、どんなテーマにせよ、何がしかの信念をもって仕事をするということが、知識が誰にでも手に入れられる世の中で、弁護士の不動のプロフェッションなんだと感じています。全人格をもって仕事にあたる弁護士の存在は、どれだけ知識が氾濫しても、というより氾濫するからこそますます重要になると思います。仕事の機械的能力と無関係に、そういうあまり科学的でない部分が弁護士のプロフェッションなんだというのが、不思議なものです。